2015年11月20日金曜日

茨城県教育委員による障害児についての発言にひとこと

「妊娠初期にもっと障害の有無がわかるようにならないのか」と教育委員が発言をした件が、物議を醸している。
特別支援学校を視察した話題に続き
「妊娠の初期に(障害の有無が)分かるようにできないか。4カ月以降になるとおろせない。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」
「意識改革しないと。生まれてきてからでは本当に大変。茨城県では(障害児の出産を)減らしていける方向になったらいい」
と発言したそうだ。
公の教育に携わる方の発言として、ひどい発言だと感じた。

ツイッターではどんな反応かと、チェックしていると、乙武 洋匡氏(@h_ototake)が
「長谷川センセイ、私も生まれてこないほうがよかったですかね?」
というツイートがあったり、さまざまな反応がある。否定的な見解が多い印象だが、「気持ちはわかる」というような考えの方も居ることを知った。

障害児の親として、僕はこう考えている。
障害児と線引きされる子どもを育てるのは、障害児でない子どもを育てるより、一般的には大変と言えるとは思う。障害といっても、肢体が不自由だとか、知的な面で健常な人と違う所があるとか、さまざまではあるが、大抵は苦労がつきものではあると思うし、ものすごく大変な子育てになる場合もあり得る。
でも、だからと言って、先天的な障害を事前(出生前)に避けることが、障害児と付き合う解決策だとは思わない。むしろ、それは間違っていると思う。育てるのに苦労しそうな子どもは、障害というレベルでなくてもいっぱいいるし、大人になっても本人が生きていくのに苦労する人物も居れば、他人から見て付き合っていくのに苦労する人物も居る。障害児を選別するという考えは、障害が無い人でも、苦労する人は選別する(堕胎?)という発想にならないだろうか。その考えを突き詰めて実行すると、人には誰でも欠点があるのだから人類は子孫をつくれなくなるだろう。
そういうことではなく、先天的に持って生まれた特徴は、その人物の人格そのものだと思うし、いろいろな人が居て成り立つ社会を構成するためにも、いつの時代でも障害者が一定の割合生まれることが、人類の自然な状況なのだと思う。「みんなちがってみんないい」「ナンバーワンよりオンリーワン」とか言う言葉は、そういう多様な人々を肯定する社会を言っているんじゃないの?
障害児の存在をどう受け入れるか、障害児の親や家族が大変ならば、周りの人々は手を差し伸べるべきだと思うし、恩に感じた当事者は感謝の気持ちを伝えるべきだと思う。大変だと苦しい思いをしている人は、声をあげるべきだと思う。そうやって、「苦労」が社会に生まれるから、人と人は助けあったり、ドラマが生まれたり、豊かな生活が生まれたりするのではないか。と考えている。

「本当に大変なんだ」という当事者家族の方も居るのでしょう。僕は本当に大変だ!とは感じることもあるけど、今のところ大きく悲観的にはならないで居られる。どうしてなのか、時々考えてみるけど、やはり、子ども自身の存在が誰かの為になっている、としばしば感じることがあるからだと思う。
保育園の仲間たちが、我が子を歓迎してくれる時、その仲間たちは、その前に起こった喧嘩を忘れているかも知れない。何もできない我が子のために、我が子の仲間たちは、知恵を絞って一緒にイベントを経験できるように考える。それが仲間たちの共通の課題となり、団結が生まれるかも知れない。障害児と共に過ごした子どもたちは、次に別の障害児に出会った時に、自然に力を発揮できるかも知れない。時間ばかりかかって仕方ないなーと食事を介助している父親は、子どものおかげで結構いろいろな人に出会って楽しい思いもしている。などなど。
こういうことは、実際に経験してみないとわからないことだと思う。だから、今回の教育委員センセイも、発言を撤回したのはいいが、「障害児にも絵の上手な子がいた」とか、その程度しか言えないのだと思う。長谷川センセイも経験が乏しいことは不幸なことだったと思う。障害児には突出した才能がある子も中にはいるけど、僅かな才能しか見つからない子も多いし、全く役に立ちそうにない才能を発揮する子もいる。本当に、ただそこに寝て存在しているだけなのではないかという子も居るのだ。でも、その存在自体に意味があるから生きていくべきだし、存在に意味があると信じるから周りの人達も障害児を支えていく気持ちになる。絵の才能があるかどうかで、堕胎すべきかどうかということでは全くない。

こどもが生まれて、親になったと思ったら、こどもが障害児でした。という時に、誰しもショックを感じるものかも知れない。そのショックの程度は、それまでに障害児(者)とどれだけ接したことがあるか、どんな経験をしたことがあるかによって変わるだろう。ともあれ、生まれてしまった子どもは、親にとっての運命なのだと、僕は受け止めている。親にとっても必要な子どもだったのだと。
たぶん、そういう考え方をしないと、障害児を世の中に受け入れられないと思うのだが。